日常、人々は普通に暮らしているその時間、その中で様々な事がありつつ、日々、つつがなく暮らしています。
日常は『不変』の継続のそれとして社会の中に常にそこに『在る』事が当然の理(ことわり)。それがある日ある時、突然、180度、一変する事など、通常、人は考える事は無いと思います。
ですが人は人、生身の存在です。突発的な出来事に対応する事も、周囲に在る自然災害にも当然の事ながら敵う訳がありません。
古(いにしえ)から連綿と続く震災、天災、先の新型ウイルスのような脅威を、100年に1度とも言われるパンデミックを予見する事はまず出来ないと思います。
普段、普通に行く繁華街や商店街、スーパーで購入する水、食料がある日、突然に無くなる。その事もそれが起こって初めてその事実を人々は知る事になる。今、これを記している自分自身もまずはその現実を知る事になるのですが。
2024年8月の下旬、スーパーでお米が無くなる状況になりました。街のどのスーパー、専門店に行ってもまず手に入る事が出来なく、通販等では価格が高騰し、でもそれでもそれを申し込む方が数多くいました。
その発端は南方で起こった地震災害が起点だったと言われています。学者、識者、専門家の方々の見識はこういった物でした。この地震が発端になり、近く100年に一度とも言われていた南海トラフ地震に繋がるのではないか?と。それはあくまで仮定のそれとしての事です。ですが多くの人々の中では、かって無い程の震災が起こるかもしれないという猜疑心、不安から周囲の人々の『事前の対策』という想いからの動き、それ故の衝動的な行動。それが水、お米、災害に置いての備品等が街中から消えるという事だったようです。
日本人の主食はご飯です。パンやパスタ等もありますが、やはりご飯あっての食卓の潤いだと私自身もそう思います。
それまで、そこにある事が当たり前とされた事が、ある日ある時ある理由から、または理由もなく無くなる事もある。その脅威と、また恐怖に近い物を感じた夏の日の終わりの事でした。9月初旬にこれを書いている時点では、少なくとも状況は好転してはいません。当然の事ながら行政も対策を検討されておられるのでしょうが、間の悪い事に丁度その時期、首相の辞任表明、新たな総理への交代という国家の大問題と重なり、それ以外の国民に繋がる事は滞っている状況です。
個人的に思う事ですが、人は想定外の出来事の前にはプラスの想像をする事が困難な生き物なのではないかと思う事があります。例えるなら、どんなに強靭なボクサーであっても、彼の頭の中に相手の攻撃の選択肢に右ストレートが想起されたその0.1秒後に相手から左フックが来たとしたなら、それを避ける事はとても困難な事であるように。日常の中、想定に無かった事が起こる非常事態時の対応力とは、自身の体力、知力とはまた別の物なのかもしれません。
想定外の事に対する想像力からの創造力、困難に対しての打開策。それは、まずは冷静に考える事が叶う精神力と臨機応変な行動力、その双方があってこそ、その打開策は生まれるのではないか。そう個人的には思います。勿論、言うは易しの事なのですが。ええ、言うだけなら人は好きな事を好きなように口にする事が出来ます。あくまで机上の空論として。
知人などはパスタだけでもいいよと言ってる方もいます。それも一つの代替案だと思います。この文面が公開されるであろう10月の時点で世間がどういった状況になっているかは正直、自分には分かりません。分かりませんが、一つ言える事は、お米がないならその代替物を用意する思考の柔軟性が何より必須の事なのではないかとも思います。
突発的な事柄は昔も今も、そしてこの先もやはり起こり得る事だと思います。有事の際、過度に恐れず、必要以上に気負う事なく。勿論、それも言うは易しの事なのですが。幸せは皆が皆、望む物だと思います。約3年数カ月の新型ウイルスの件で嫌という程に自分は思い知らされました。自分の敵は自然でもなければ他者でもない。自分自身がまずは最大の敵だという事を認識する事。この先の未来に起こり得る何某かにも打ち勝つそのためにも。最後に。ご飯に含まれているでんぷん質。それは野菜などよりも腸の奥まで浸透し大腸の活性化がより良い物になるとの事です。後、やはり単純にご飯は美味しいです。日本人の一人として、日本の主食はお米だと思います。何よりご飯とお味噌汁、和物の幾つかのお惣菜は日本ならではの食卓の光景だと思っています。願わくば早期の日常の回復を心から願う者です。